にている

昼前に、NHKでおもしろい番組をしていた。偶然だったので番組の途中から。
京都の上賀茂神社下鴨神社で春におこなわれる葵祭を中心にしたもの。
下鴨神社についてのところから見ることができた。


杜における春の息吹、いのちの芽吹く季節に祭がおこなわれることを
神さん*1の復活を祝うというような意図があるように受け止められる表現がされていた。
四季による年間の季節の巡るサイクルを死と生の循環のように受け止めるありかたを見たような気がします。
復活という言葉を強調しているように感じられました。
その趣旨は、まるでイエス・キリストの死と復活を記念する祭のよう。
クリスチャンのなかにはそのような連想をする人もいるかもしれない。
彼の死と復活もおなじく春の時期。
旧約聖書に規定された過ぎ越しの祭のころ木に架けられ三日目によみがえり
四十日間あらわれた後、弟子たちのまえでオリーブ山で昇天。
そして死から七週後の五旬節の祭のころに聖霊降臨、キリストの教会のはじまり。


神饌をささげることも旧約聖書のレビ族による神殿奉仕のようだ。
さらにキリストの弟子たちとの最後の晩餐、過ぎ越しの食事のよう。
神さんをよろこばす、神さんとともに食事をするというのは、そのとき制定された聖餐式みたいだ。
ともにおられる神というのはイエス・キリストを指す際にも用いられる。*2


ある神事のなかで、神職がことばになるまえの声、うめきのような声を杜のなかでひとり発するというのがありました。
御蔭神社で荒魂(あらみたま)、神の霊をお迎えする神事だったとおもいます。
まるでパウロの語ったことの表現かとおもいました。
神の御霊が人々のために言いようも無い深いうめきによってとりなしの祈りをされる、ということの。*3


モンゴルのホーミーとは響きが異なっていたけど、歌詞になっていない歌というか祈りというのは何か似ているかも。
あの祈りあるいは歌は、なんというのだろう。メモできなかった。
「警」という字が含まれていたけど2文字目を覚えていない。
あのことばにならない歌・祈りにはどのような意味が込められているのだろう。
再放送されないかなあ。


面白い番組をみると、いろいろ検索したくなります。
雰囲気のある凄みを感じさせるナレーションなので声の主を調べたら三輪山のふもと出身とか。
下鴨神社式年遷宮があり21年としているとか。
伊勢神宮の20年に一を足すのには何か意味が込められているのかな。

*1:番組では「神さん」という表現が多かった。京都での標準的な敬意をもつ表現なのかな

*2:新約聖書マタイ 1:23, 旧約聖書イザヤ 7:14

*3:新約聖書ローマ 8:26